何気ない会話の節々、食べ物への価値観、生活音の大きさ。
あれ?と思う違和感は、家族にだって恋人にだって誰にだってある。
小さな違和感はヒビとなり、いつか壊れるよ。
昔、誰かに言われたことがある。
山崎まさよしだって歌っている。
「育ってきた環境が違うから好き嫌いは否めない」
そりゃ、そうだろう。
大事なことだから、あのSMAPだって歌っている。
私はそう思って他人をみている。
この人はこういう考え方をするんだな。
この人はこういうときそんな態度をするんだな。
それが自分と合う合わないはもちろんある。
だけど、「そういう人」なのだと思っていた。
小さい違和感を感じた時、なんでそう思うの?と聞ける人が心底うらやましい。
私がなぜそう聞けないかと言われると、ズバリ聞かれたときに答えられないからで、自分が答えられないことを人に言うのは失礼だろうと違和感に、蓋をしてきた
「性格曲げてまで気持ち抑えてまで付き合うことないけど」
あの歌は名曲だ。
それでも、人は誰かと一緒に居たいと思うとき、自分を変えるか、相手を変えるかしか方法はない。
ありのままの自分を好きになってほしい。
私はこの言葉が嫌いだ。
変わらない愛情を注いでくれるのは母親くらいなものだ。
この人にはここまで合わせよう、この人とはこの距離でいようとか、そういう折り合いを自分のなかでつけて人間関係を維持いくものなのではないか。
そこまでしてまで傍に居たくない。というのなら、多分そこまでなのだ。
それでも一緒に居たい。そう思うから人は人との距離をはかる。
ヒビの入った人間を、味があると言う人もいるだろう。
芸術に終わりはないのだ。
だけど、人生は?
小さな違和感を蔑ろにした結果、いくつもの関係にヒビが入った。
それは、寿命だったのかもしれない。
だけど、もしかしたら修復できたのかもしれない。
小さい頃から使っているものを大事に持っている人をみると、いい人なんだろう、と思う。
だけど、バキバキに画面の割れた携帯や、割れた車のテールランプをガムテープで貼ってる人は、やばい人だな、と思う。
大事にすることと、長く持つことは違う。
早く捨ててしまって、新しいものにしたほうがいいものだってある。
そこの取捨選択の微調整がきっと人生には必要不可欠で、そういう積み重ねが自分を形成していくのだ。
小さな違和感を修復していくのか、壊れるまで持ってみるのか、亀裂の入った時点で棄ててしまうのか。
逆の立場で捨てられたなら、いい機会だから自分を見つめ直してみるといい。
違和感に気づかずにここまできたのか、それとも気づいていたけど知らない振りをしたのか。
どちらが悪いなんてことはない。
違和感が、関係性にヒビをいれただけ。